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ドゥイノ城哀歌 その1
たとえ、叫んでみたとて、天使らの配列のいったい
いかなる者が聞きいれてくれようか?もしかりに、
そのうちの一人が、にわかに胸に抱き寄せてくれたとて、
その、より強大なる存在を前にせば、我が身はただもう滅亡せんばかりだ。
なぜなら、《美》とはほかならぬ、我らには耐え難き、おぞましき《起源》なれば。 5
だとすれば、何故が我らして此〔〕 れなる者らを崇めさす?それは、天使らは平然と、⇒
さも
蔑〔〕むようにすらして我らを潰しにかかるゆえ。天使らは、皆ことごとくが凄まじい。
だからこそ私は自分を
諌〔〕めて、暗いすすり泣きの誘い声を
押し戻す。ああ、だとすれば何にすがればよいのか?
天使ならず、人ならず、そして賢い動物たちさえも、
10
我らがみずから定義づけた世界に不慣れなのだと
気づいている。もしくは、どこか丘の上に一本の
樹か何かが残っていて、毎日、その姿を見せるかもしれない。
過ぎし日の街はもう、ない。
ただ、習慣という、こりかたまった忠節が、
15
我らになつくあまり、居ついて,去ろうとしなかった。
⇒
あゝ、夜が。あの、空間に満てあふれた夜が
我らの顔を
喰〔〕らうとき―誰のもとならば、そこに
留〔〕まることをせんのやら、
孤独な心の処へと、やるせなさそうに訪ねやってくる、
あの待ちどおしい、軽い失望の夜は?
20
夜にせど恋人同士ならば、幾分かしのぎ易いものなのだろうか?いや、
彼らとてお互いを利用して、己が運命を紛らわしているにすぎない。
そんなことも、まだ知らずにいるのかい?ほら、腕の中の虚しさを、これより
我らが息をする空間へと投げ出そう。さすれば鳥たちも
空が膨らむのを感じ、なおいっそう、心のゆくままに飛ぶことができるようになるかもしれない。
25
そう、いかにも春たちは、君を必要としていた。あまたある星たちも、君が
触れてくれるものと待ちかまえていた。過去には波が立って
君めがけてうねり寄せたり、開いた窓にさしかかればヴァイオリンが
誰かに身をまかせたりしたものだ。これらすべて、任ぜられた事なのだ。30 ⇒
が、君にはそれが耐えられるのか?君はいつにしろ、
期待で気がたかぶっているではないか?まるでそれが
恋人の到来を告げるかのように。(いずれにしろ彼女をどこにかくまおうと
いうのか?君にはあのとてつもなく異様な想いの数々が、
頭の中を行き来し、夜どおし、ついてまとわれることもしばしばだというのに。)
35
だが、想い焦がれるときがあるなら、ともに愛人だった彼女らを歌え。
彼女らの情熱の誉れは、まだじゅうぶんに不朽のものとなされていない。
君などには、むしろ羨ましいほどな彼女ら。棄てられ、それだけにかえって、
満たされたものよりも愛情に溢れていると、君も知る人たち。
40
たえず新たなる讃辞を―たとえやり遂げられずにしろ―くりだそう。
⇒
考えてもごらん。英雄とは
堪〔〕えきるものだ。しかもその没落さえが、
ただそのふりを偽っているにすぎない。最後の誕生を達成するがために。
だがそんな愛人たちを、疲れきった自然がその
ふところもとに迎えいれる。それもまるで、二度とふたたびそれをする力さえ
45
尽きたかのように。君は、かの
ガスパラ・スタンパ1 のことをじゅうぶんに
ふりかえってみたろうか?そうすることで、恋人に捨て去られた
いかなる少女も、この、愛に生きた女性の気高い手本にならって、
「ああ、もし彼女のようになれるなら」と、思えるようになれば。
そろそろ、これら最も古来の悲しみが、我らにとって少しは実りあるものであって
50
よい頃ではなかろうか?また我らにせど、いまは愛する人たちのもとから
愛おしげにみずからを振りほどき、震えながらもそれに耐える時ではなかろうか?
いわば、つがえた矢が、
弓弦〔〕を耐え、飛距離をたくわえ、
自分を越えんとするように?なぜに、とどまりはいずこにもなきゆえ。
⇒
55
声が、声が…聴けよ、わが心、かつて聖者たちのみならばこそ
聴きすましたように―あの強烈な呼びかけに応じ、
地上より舞い昇らせたまわんが為に。だが聖者たちは跪いてばかり、
仕様のない奴ら、あたりに気をつけることもせずに、ただ
聴くことばかりに夢中で。かといって、神の声に君が耐えられるはずもない、60
それには及ぶべくもない…だがそれでも吹きすさぶ音を聞け。
ひききりなしの通報〔〕が、静寂より創りだされるのを。
それは数多くの夭逝〔〕せし者らが、君にあててざわめいているのだ。
ロ−マやナポリの教会を訪ねれば、
きまってかれらたち〔〕の運命が囁〔〕きかけてくる、そうだろう?65
あるいは、銘文が浮かび上がるようにして君に押しつけられてくることもある。
ついぞこの間の、聖マリア・フォルモザ2の石碑のように。
彼らは、私に何をせまるのか?私は、彼らが不当な
仕打ちを受けただろうなどとする素振りをそっとはらいのけるべきなのだ。
⇒
そして彼ら精霊の純粋な動きの、わずかとも妨げとならぬようにせねば。
なれど、この地上にいなくなるということは、やはり
可笑〔〕しなものだ。
70
ろくすら身につけもしなかった慣習にならうことも、もうやめ、
薔薇や、その他のことさらなる祝福のこめらる物らに
人間の未来の意義性を託すともしなくなることは。
そして、いつでも気づかってくれる手に顔を撫でさせてきた、
75
かつての人でもなくなり、自分の名さえ、
壊れた
玩具〔〕のように放っぽりだしてしまうのは。
望むことさえ、もうせぬとはおかしなものだ。かつて絆で繋ぎとめ
られていたものが、宙にばらばらに舞っている、それもおかしなものだ。
それに死ぬということはなんとも
辛〔〕く、追いかけなければならぬことだらけなのだろう。
80
しかもそれは、やがてのち、永遠のたかが
一雫〔〕を味わうが為だ。―
⇒
だが生きている者はたいがいが、区別のし過ぎというあやまちをおかしてしまう。
よく、天使たちは(言い伝えによればだが)生きている者の
間〔〕も
死んでいる者の間もわからないという。
永遠の流れは、たえずすべての時代をおのずの中に引きずり込んで、
85
両側の世界を巡り、両側にてその音を溺れさす。
結局、幼くしてみまかりし者らは、我らなど必要とせぬものなのだ。
彼らは俗世のすべてから、徐々に乳離れさせられてゆくゆえ。
さながら母親の乳房のもとにいても、いずれは大きく育ってしまうように。90
だが、こうした偉大なる神秘を必要とする我ら、
ときには悲しみによってのみしか祝すべき進歩を得られぬ我らにとって、
彼らの存在なしでも、在り続けることはできるのか?
かの伝説もけっきょくは無為なのか?すなわちリノス3 を惜しむがために、
⇒
最初の音楽たるものが、虚しく、麻痺しきった感覚をつんざき、
95
そうして初めて、たじろいだ空間に、ひとりの神らしかる青年がにわかに、
永遠と置き去りにすることで,空虚が感じはじめた
その振動こそ、今、我らを満たし、慰め、救ってくれるものだとする伝説は?
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ドゥイノ城哀歌 その2
天使たちは皆、凄まじい。けれどそれでいてやはり
私は歓迎する、君ら命さえ奪いかねない魂の鳥たちを。
なぜに、君らについてを知るが故に。過ぎし
トビアス4の日々は、いまいずこにか?
かつて輝きを極めたその
ひとり〔〕が、つましい家の戸の前に立ち、
しかも旅姿にほんのもうしわけ、身を扮しただけで、もはや恐ろしくもなかった(そして
5
ふしぎそうに外を見た青年に対し青年として応じた)その頃の日々は?
今日び、もし大天使が訪れようものなら、その存在じたい危険な彼らの
いずれかが、星空の裏側より、ただ一歩、降りてこようものなら、
心臓の動悸の高まりに、我らは落命してしまう。君たちはいったい何なのか?
⇒
10
君ら
劫初〔〕よりの完成作よ、世界
開闢 〔〕の
愛児〔〕たちよ。
山脈の
端〔〕、創世紀のころより曙光に赤らむ
頂、〔〕華やぐ神の
御〔〕しるし
* よりこぼれ落ちる花粉、
* 神性、神格
光の
綾〔〕、廟廊、
階段〔〕、王座、
存在の空間、
快楽〔〕の楯、嵐のごとく
15
渦巻く歓喜、そして突然とみずからほとばしる
自〔〕ずの
美を、やはりみずからの
面〔〕にてこしらえ
直してしまう、類なき唯一の鑑よ。
我らは感じようとするなれど、したがとたん、蒸発するだろう。ああ、
⇒
我らはおのが身を
外〔〕に、遠くに、息とともに吐く。燃えさしより
20
燃えさしへと、我らはよりほのかなる香りを放つ。すると誰かが
我らに「そのとおり、君は我が血のなかに入り込んだ。この部屋も、春も、君に
満ち溢れている」と、言うかもしれない。無駄なことだ。天使は我らを保てやしない。
我らはそのそばから、あたりから、消えてなくなってしまう。ならば美しき者たちは、
彼らは何者が抑えているのだろう?しきりに彼の顔には、なにか虚像が
25
うかび、そしてかききえてゆく。草の葉の朝露のように、
我々からものらすべてが立ち昇ってゆく。あたたかい料理の食器の
湯気のぬくもりのように。あゝ、天を仰ぐ眼、
初々しい、温かい、退いてゆく心の波…
つまりは我らとはそうしたものなのだ。我らを溶けこませた宇宙空間には、
30
やはり、その味がするのだろうか。天使らは、ほんとうに与えられたもののみ、
みずから湧きおこるもののみを摂取しているのだろうか、
⇒
それとも、ときたま間違えたようにして我らの一部が
まぎれこんできて、天使らの特徴に
まじり溶けてしまうこともあるのか?妊婦の顔色に表れる
35
朧げな表情のように?いや、天使等は気付かない。ただ
翻り、おのがうちに帰結するだけで。(どだい、いかにして気づけというのか?)
恋人たちは、もし知っていさえすれば、夜の空気にふれて不思議な
語らいをするにいたるかもしれない。すべては
40
我々をひたすらに隠してしまうがゆえ。見たまえ―樹々は
是〔〕れに、
我らの
住処〔〕もいまだに建っている。ただ我らのみが、
入れ換わる
微風〔〕のごとく通過してゆく。
そしてすべては、こぞって我らを押黙らせようとする、なかば
羞恥の心から、あるいは、なかば言わざる願望から。
45
君ら恋人たち。お互いさえあれば足りる者らよ。君らに問うてみたい、
我らのことなどを。君らはお互い支えあっているというが、どこにその
証拠〔〕があるのか?
⇒
聞いてくれ、ときおり僕の手が、もう片っぽを意識したり、
あるいは、くたびれた我が顔がその手の中で救われたり
50
することがあるのだが。そしてそれは僕につかの間の刺激を
もたらしてくれる。だがそんなことくらいで誰が、おそれ多くも存在などするものか。
なれど君達は、お互いの歓びの絶頂をもって膨らみ、ついには
それに圧倒され、「もう、ここまで」と請うまで
それをやめない。―それはお互いの手のなかで
55
豊作の葡萄のごときを、たわわに実らせて、
そして時々、身をことごとく相手にゆだね、
体を垂れてしまったりする。その君らに我らのことを訊ねたい。君らが
幸せそうにお互いに触れるのは、手撫でる行為の抑制なのだと知っている。
なぜに、おだやかなる君達が覆い隠す場所は、なくなりなどせぬゆえに。
60
さらには君達がその内面に、純然たる永遠を
感じ取るが為に。それゆえ君らは抱きしめ合いながら、あわよくば
⇒
永遠をお互いに約束する。なれど、もしすでに、馴れ初めどきの
戦慄に耐え、窓辺にて会いたくてたまらなく想うことや、
一度きりながら、公園を初めて一緒に散歩することなどを経たとき、
65
君らはなおかつ恋人でいられるのか?君らがお互いに、
口元で近づきあって、
一啜〔〕ずつ、交じりあわすように口に含むとき、
啜る人らは何と妙に、おのおのの役割から心がかけはなれているものなのか。
君らは
アッティカの石板〔〕5における人物像の、忠告の
70
仕草に驚かされはしなかったろうか?愛と訣別とが
その肩に軽やかに置かれ、まるで我々の手に
拠る物でないようなことに?憶いだしてごらん、その手が
圧迫さえを感じさせずに触れてきたろう、けど胴体には力強さがあったろう。
かれら、自我を制覇した者らは知る:我らはここまでに至り、と。
75
⇒
これらことごとく、我らのものだ。かくして我らに触れるために。強引なほどに
神々らは我らにのしかかる。だがそれは、神々の
思〔〕し
召〔〕すままがゆえに。
我々は、せめて純然たる―ささやかなれども、ごくせばまれていても―そんな
80
人間性を見つけられないものか?我らのものである肥沃な果実の大地を、
河川と岩間のただなかに?なぜに、われらはもう、見つめれば
心落つかせてくれる画像も、より偉大に鍛えるための
神のごとき身体も、もはや作りだすことはできやしまい。
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ドゥイノ城哀歌 その3
愛し人を歌うならまだしも―だが、かの見えざる、罪ありき、
血液におわす
《河流の神
》を歌うは、べつなることなのだ。
彼女が遠くにて知る、愛し若者―そんなごとき者が、欲情の
君主〔〕に
ついて、いったい如何ほどを知りうるものか。たびたび、孤独なあまり
(少女が、ときにはその気配をさせぬほど、さりげなく慰めてくれるようになるも前)
5
あゝ、その
神格〔〕をもたげさせ、知れようもない、なにかを滴らせ、
間断なき躍動を夜にけしかける、そんな神についてを?
おゝ、
海神〔〕の血潮、その恐るべき
《三叉の戟〔〕》よ!
おゝ、その胸のうちより、法螺貝を経て、吹いてまかれる暗き吐息よ!
聞きひたるがいい、夜がうねり止み、虚しくなりかわってゆくのを。星たちよ、
10
愛のめばえた者が、心に想う
女〔〕の面差しに欲情をかきたてられるのは、君らが
その源なのではないか?彼の者が女のあどけない顔について
もっとも身近にしていだく直感は、けがれをしらぬ星座の産物ではあるまいか?
君も、いや、彼の母親にせど、彼の眉元に
⇒
期待で反りかえった曲線を架け渡すなどしてやしない。
15
君、彼に触れる
少女〔〕よ、彼が唇を曲げ、より
豊かな表情をよそおったりするのも、もはや君のためでなどなくなっている。
それともなお君は、曙の風のように動く君の
軽やかな歩みに、じじつ、それほどまでに、神が
恐れおののいたと、いぜん、言いはるのかい?だが、触れた
20
せつなに舞い込んだそれは、より
古〔〕の恐怖であったのだ。
呼べよ、彼の名を…けど、その暗い行列に連なっていたのでは、いまひとつ、届かぬかもしれぬ。
まさしく、彼にはそのとおりの意志があって、げんに脱出をはたしている。安堵したものか、
彼は君の秘められた心のうちにて馴染み、おのが身をとらえ、胎動する。
だが、はたして彼は胎動したのであろうか?
25
母よ、あなたこそ彼を小さくさせた、彼をかく仕立てあげた。
彼がまだうぶなころ、あなたはその幼い眼の上に
⇒
手をかこって、やさしい世界を見せ、見慣れぬ世界を遮った。
あゝ、あなたがその細身の体を挺してまで、沸き起こる
混乱から護ってくれたあの頃は、どこに行ったのか?
30
かのごとく、あなたは多くを伏せてきた。夜な夜な不気味でたまらなかった
部屋さえたわいないものとし、かくまってくれる
在処〔〕のありあまる胸元で
あなたは人間らしさのある空間を、夜の空間にとり混ぜてくれた。
闇中ならず、さにあらず、あなたはご自分の存在をより身近に
感じさせてくれそうな辺りに夜灯を置いて、それが友情あってかのごとく輝いてくれていた。
35
床板が軋めば、いっときとて笑顔で解き明かしてくれないことはなく、
あなたはまるで床が
悪戯〔〕しようとしているのが悟れるかのようだった
…
そして、あなたを聞いているうちに気は鎮まってくれる。そこまでは
優しいあなたが起きだしてくれることで達成できたのだ。そして彼の運命は、
衣鉢を継がされ、背伸びをしながら洋服箪笥のうしろへ引き籠り、彼の穏やかならぬ将来が、
40 ⇒
そそくさと姿を変えながら、カーテンのひだのうちに紛れこんでいった。
そして彼は、ひとりで床に入り、慰められながら、
あなたの朦朧とした気配とその眠たそうな
瞼〔〕に見守られながら、
睡眠の最初のひとすすりの甘みのなかにとけこんでいったものだ―
45
だが傍目にはいかに堅固な護りだとて、内面では誰ぞ護ってくれる者、すなわち
原始の
満潮〔〕のついたてとなってくれる者がいたろうか?
あゝ、眠る児に警戒などありはしない。眠りつつ、
しかし夢を見、熱にうなされ、なんと
奔放〔〕だったものか。
初々しい子、はにかみ屋、それがふたたび訪れようとする内面の葛藤の
50
伸びほうだいなままに、いかに
虜〔〕にされていたか?その巻きひげが
すでに絵模様のごとくして織られ、絡みあう
繁茂〔〕となり、野獣の姿さえを
なしていた。それを彼はいかになるがままにまかせたものか?愛したことか?
おのが内気な性格を愛し、内にやどる野性を―すなわち
⇒
内にひめられた原生林、その、物をも言わぬ崩壊の跡に
55
さみどりの心が置かれるありかを。そう。愛した。そして後にした―
彼固有の、一族の根をはなれ、力みなぎる源泉におもむいた。
すなわち彼のちっぽけな生誕などよりとくすでに生き継がれている処へと。愛さえこめて、
彼は旧き血をたどる―恐怖がひそむ淵、
祖先らでいっぱいに敷きつめられた処を。そしてあまつ
《恐怖ども
》はみな
60
知っていた―彼のことも、また、目で合図してよこしているように、何をしに来たのかも。
そう、
《巨大なるそれ
》は微笑んでいた。母よ、あなたという人は
まずもって、これほどまでに優しく笑ってみせたことはなかったっけ。なのに、どうして
そちらを愛さずにいられよう?こんなにも彼に、微笑んでくれているのに。あなた以前にすでに、
そちらを愛していたくらいだ。なぜに、あなたが彼を身ごもったときすでに、
65
それは胎児を浮かべる羊水のなかに溶けこんでいたゆえ。
見たまえ、我らは花のごとく愛すなどとうてい真似られやしない ― 一年かぎりの
わずかだけなどとても。愛すれば我らの
腕〔〕には、
⇒
記憶にしれない太古の樹液が沸騰する。あゝ、
少女〔〕よ、
70
此れら―我らは心の奥ではひとりならずを、訪れるべき人のみならずを、つまりは
数えきれない沢山の者達を愛す。わずかひとりの子をではなく、
かつての丘陵の遺跡のごとく、土に
埋もれた父たちを、
枯渇〔〕はてた河底の
ごとき母たちを―はては、晴れているのかも曇っているのかも
75
わからぬ運命の下にのぞむ、あの、音をもさせぬ光景を。
―此れらこそが君を
留〔〕めさせたのだろうか、乙女よ。
そして君、君自身は何を知るだろう?―君は過去
⇒
の時代を愛人に呼びさまさせた。過ぎ去りし物らから
80
いかなる想いがたけりおこったことか。いかなる
女たちが、そこにて君を憎んだことか。いかに猛々しい男どもを
君は少年の静脈に掻きおこしたろうか?いまは亡き
子供たちは、君めがけて体を伸びきらせ…あゝ、そっと、そっと
彼のために、信じてたよれる日常の課程をこなせよ。
花園のもとへ彼をおびきよせて、夜の
《ありし殆ど
》を与えよ…
彼を縛りつけよ…。
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ドゥイノ城哀歌 その4
あゝ、生命の樹々よ。いつなれば冬らしくなるのやら。
かくてはとうてい、心一つとは言えまいに。旅鳥たちのなすように、
心が
通〔〕いあっていない。先を越され、遅ればせながら
我らはいきなり、がむしゃらに己が身を風にゆだね、
そして無関心な池溜りに、
墜〔〕ちることをする。
5
開花するも枯るるも、我らは同様に知っている。
そしていずこかでは獅子どもが
彷徨〔〕い、その
君主たるにふさわしきにおいて、いまだ何とて弱みを知らぬのだった。
だが我らのばあい、ひとつの事に専念しているつもりでありながら、
10 ⇒
すでに別なる気掛かりがうずいていたりする。妬みこそ
我らにもっとも近いものだ。恋人たちはいぜんとお互いの
限界につきあたるのが常ではなかろうか。かつて
自分たちの場所と、追いかけっこと、二人だけの
郷里〔〕を約束しておき
ながら。
そこを、目のまばたきの写生を、我らに示さんが為に、
15
背景の
《負
》の部分が、なにやら大儀そうに用意の
かまえをとっていた。なぜに、誰にもあきらかなことなれど、
我らには感情の輪郭はつかめない。
わかるのは外側でどうふちどられているかだけだ。
誰だろうと、己が心の垂幕を前にして、躍起になって着席しない者はいなかろう。
20
けど、はたして幕が上がれば、舞台は
《別れ
》の場面なのであった。
それも、わかりすぎるくらいに。見慣れた庭園、それが
わずかに揺れていた。そしてやっとのことで踊り手が。
だがそれは彼ではない。もういい、たくさんだ! いかに軽やかにたちふるまえど、
⇒
やはりそれは仮装にすぎない。そしてそれが家に帰ると
25
台所の裏口を利用するような、一市民であったりする。
こんな中途半端な仮面はいらない。それより
人形のほうがよほどましゆえ。せめてそれなりに完全なものであるぶん。ただ、
ぬけがらの胴体や、
操り線〔〕や見せかけだけの顔などは、それは
我慢しよう。ほら、ここだ。僕はこの正面の席にいる。
たとえ脚光のあかりが消え、もう、おしまい―だなどと
30
言い渡されたとても、もし舞台上の
渺茫〔〕が
灰色のすきま風となって吹いてきて、
わが押黙ったままの祖先たちも私の
隣に座ることをせず、かの婦人もおらず、
35
かの、
茶褐色〔〕い眸〔〕6 で伏し目をこらす坊やもいないとても、
私はここにいるとしよう。いずれにせよ眺めるくらいはできるだろう。
⇒
だろう?父君よ。僕のためなどと、この僕の人生を
試し舐めてみて、かえって自分の人生を苦い味のするものにされてしまって。父よ、
40
最初、僕の要求がどろどろした煎じ湯のようだったころから、
僕が育つにつれやはり舐めてみつづけて、
そして僕の未来があまりにも不思議な後味のすることに
こだわりつ、この僕の、霧でつつまれたように天を仰ぐしぐさを真似するなどして。
僕の父たりて、あなたは亡くなってしまってからも
45
僕の希望のなかにいて、時々、悩んだりしてくれて
死者ならば持つべく安らぎを、そう、安らぎの世界のいっさいを
僕の一屑ばかりの将来性のために投げ棄ててしまって。
だろう?父よ。さらに君らに問う、そうなんだろう?
君たちへの愛が僕にわずか芽生え始めたからだといって僕を愛してくれた
50
君ら。しかもたかがそれでさえ、僕は道迷わずにいられなかったのに。
なぜなら君たちの顔の広大なることといったら
(僕に愛されつ)宇宙空間へと通過をとげ、
そして君らはいなくなってしまうゆえ…ときに、僕が
⇒
操り人形の芝居が待ちどおしい、そんな気分だったとしよう―いや、
55
僕があまりにも目を凝らして見るので、ついにはその
釣り合いをとるために、一人の天使が演じる役に
まわり、人形のぬけがらを手にかぶせて身をもたげさせねばならなくなる。
天使と人形が:かくしてようやく芝居となりつつある。
そして我らがつねに仲を裂いて切りはなしてきたものが
60
ここにて終結する。そして我らの季節には、
まず、完全な変貌をもとめての循環が
始まろうとする。我らの真上にて、また向こうにて、
天使たちが芸を興じている。ほら、死者たちをごらん、
我々の成すすべてが、いかにうわべだけを装っている
65
ものなのか、かれらは気づいているはずだ。いかなるものも、じつは
然〔〕るにあらざるものなのだ。あゝ、幼き日々のとき
時間〔〕よ、
どの
形象〔〕の裏にも過去のみならぬものが何かあって、
前途には未来などなかった頃よ。
むろん、我らは育ってしまうものだ。のみならず、わずかでも早く
70
成人しようとさえするものだ。しかも半ばそれは、
大人いう者たちのために、ただそうするのだろう。
⇒
けど独りにさえなれれば、我らは
常なるものをもって満足とし、
世界と玩具の
間〔〕の間隙に―
75
もとより、あるひとつの純然たる出来事
を
礎〔〕にきずきあげられた場所に、立ちつくしていられるのだ。
そんなした、たったそれだけの子供を導いてくれるのは誰か?
星座に配置して、距離をしるすための定規を
80
手渡してくれるのは誰か?そしてこの子の死を、あの
固くなる灰色の
麪麭〔〕からこしらえてしまう―あるいはこの子が丸く
頬ばった口の中に、見事な
林檎〔〕の芯のように
のこして置いてゆく者は?…それが
《殺戮者
》の仕業なら、それならば
わかり易い。だがこれは、すなわち死そのものを
85
死のあらんすべてを、
生命〔〕さえある前に受けいれよ、
いや甘受せよ、さらに怒りさえおぼえてはならぬ、ということは、
とうてい言い
顕〔〕しつくせるものではない。
矢印で進む ⇒
ドゥイノ城哀歌 その5
けど彼ら、かれら
流離人〔〕らはいったい誰なのか?教えてくれ給え。
我らよりなお、わずかしてはかなく、創始のころより(しかも誰のためにだろうか)
ある、鎮めることのけっしてかなわぬ意志の手によって
荒々しく
捩〔〕りだされた者ら。なれどその意志は、かれらを絞り出し、
そしてひねり、弾きとばし、そして振りまわす。
5
あるいはそれを投げ、また受けとめ、
油光〔〕りしそうに
滑らかな宙に彼らをすべらせる。―そして
彼らがたびかさね跳ねてまわるために擦りへってしまっている
⇒
絨毯―宇宙より紛失した絨毯―
の上に墜つ。そのさまは
10
石膏のように塗りたくられ、まるで郊外の
蒼穹〔〕が地球を傷ませたかのようだ。
そしてほとんどそこにあらぬかのごとく
垂直〔〕に、
此処〔〕にて展示されているもの―それは
《存立》〔〕
の大いなる頭文字…なぜに、かのいつどきも訪れる掌は、
15
いかに強き男たちだろうとても、それをなおいちど、たんなる戯れに、
かの
アウグスト強公7が卓上で
白鑞〔〕の皿を
⇒
弄ぶように、こねくりまわさずにはおれない。
あゝ、そして此れなる中心のまわりに
20
《眺むる行為
》の薔薇もようが
咲いて、そして散ってゆく。此れなる杵、すなわち
雌しべ、すなわちみずからの華やぐ花粉に触れ、
再び結実することで、かの
幻の果実たる
《嫌悪
》として
実〔〕る処、かの、彼らの
25
決して意識せざる―ほんのうわべだけ
照り輝く、軽きに笑みを装う
《嫌悪
》として実る処のあたりに。
ほら、あそこ。あの
萎〔〕えて皺だらけになった、かつての重量あげの選手。
あの老人はいまやドラムを打ち鳴らすことしかしない。
30
その力をたくわえた外皮のしたで、縮んでしまった中身となって、
まるで、そこにはかつて二人の男が入っていて、もうひとりは
すでに教会の墓地に横たわっていて、こちらばかりが生き残り、
⇒
遺された外皮のなかで
つんぼな、頭の混乱しがちな人となってしまっているのを。
35
だが若者は、男のほうは、まるで首の関節と
修道女とのあいだにできた申し子のように、緊張している、
筋肉と単純さで引き締まっている。
40
君ら、…
かつてまだ
《苦しみ
》がほんの
幼〔〕かった頃に、
やりすごしてきた長い静養の、そのひとときに、
ぼうや〔〕の玩具とてあてがわれた者どもよ…
45
そして君、いうなれば熟せずじまいの果実ならばこそ知る
衝撃でもって、日に日に百遍にわたり
アクロバットたち一同がひとかたまりとなって築く
体技〔〕の樹より
⇒
落ちる人よ。(それが水よりも迅く、わずかの
間に春も夏も秋も過ぎさる技なれば)―
50
君は落ちつ、かつ墓場より跳ねかえる。
ときおり、なまなかな戸惑いのせつなに、愛しげななにか表情が
君の顔より、優しささえあまり見せなかった母親に
むけて起きようとするが、それは君の体内に失われ、
はにかんだ、ほとんど試されもせなんだ表情は、
55
その面差しにて蝕まれてゆく…そして再び、
男が跳ぶ合図に手を叩く。そしていつしも
高鳴りする胸に、苦痛がいっそうせつなくなるよりもまず
前に、君の足底の焼けつくようなものは跳躍に先んじて
来たりて。そして肉体のもたらす幾ばくかの涙滴が
60
とっさに君の両目に飛び込む。
にもかかわらず、見えもせぬのに
微笑みが。
⇒
天使よ。この小さき花咲かす野の草を、いざ取れよ、摘み採れよ。
65
花瓶をこれ
拵〔〕えて、これを保てよ。そして我らにはまだ
開放されてはおらず歓びの、その
傍〔〕らに置くがいい。雅びなる壺にて
それを
《Subrisio Saltat〔〕》とて華やかな流れるような文字で讃えよ。
そして君、わが愛する人よ。
70
興奮きわまる歓びから、おし黙ったままでいるすきに
飛びこされたりして。もしくば君の裾地は、
その方が君にはめでたしと思っているかもしれない。―
さもなくば、その若々しい弾むような胸を
おおう、
金緑色〔〕をした絹の衣装が
75
しじゅう甘やかされっぱなしで何不自由ないと思っているかもしれない。
君、揺れてやまぬ天秤の量りのうえで
いつも別売りにされている
⇒
《諦め
》の青果よ、
人垣の肩のならぶところに
公〔〕けにされて。
80
いずこに、あゝ、かの場所はいずこに―それは我が心に
抱〔〕かれている―
そこではアクロバットたちが、かつて長らくそれを出来ず、ただお互い
転げ落ちる―まるで二匹うまく合わない仲なのに、それでも
番〔〕う動物たちのように―
85
そこでは鉄
亜鈴〔〕はいぜんと重く、
ただいたずらに旋回させられる長棒からもあいかわらず、
ぶれた皿がはずれて
飛んでゆく…
90
そして突然、このわずらわしい、いずこでもなき場所に。突然、
徹底たる
《不足〔〕》を、その
術〔〕いかしてかはかりしれずに
変えてしまう―それを虚しき
《余剰〔〕》と
化してしまう場所に。
⇒
幾多の桁を数えたとても、
95
合計が零にとどまる処に。
あらゆる広場、あゝ、パリの広場、永遠の見世物市よ。
そこでは帽子売りのラモール婦人が、
この地上すべからく静けかえることをしない道路を、果てしない
帯紐〔〕として
100
手で
捻〔〕り、巻き、そこから新しい結び目を、
襞紐〔〕を、花を、花形帽章を、造花の果物を創作する―
どれも人工色に着色されたものを―、安物の
冬の帽子たる
《運命
》のために。
. . . . . . . . . . .
105
天使よ: もし我らの知らざるところあれば、そしていずこにか
かの名状しがたき絨毯のうえにあらば、ここではついに
その可能性を遂げるにいたらなかった恋人たちが
110 ⇒
その堂々たる、心踊る
様〔〕を、その快楽の塔を
そして居る間もない場所で、お互いじっと、こきざみに
ふるえながら、梯子のようにもたれかかりあうことで出来あがっていた
ピラミッドを御覧にいれられるかもしれない―そしてもしくは
周りの観客を、無数の声なき死者たちの前で見事、成功をはたすかもしれない:
115
とすれば、死者らは残り最後の、つねに貯えられている、
つねに隠ししまいこまれている、我らが知らずとも
いつまでも通用しつづける
《幸福〔〕》の
貨幣〔〕を投げて、いやされた
絨毯の上で、ついに偽りない笑みを湛えることの
できた二人に与えるともするだろうか?
120
矢印で進む ⇒
ドゥイノ城哀歌 その6
無花果〔〕の樹よ、此な長らく間、それは私にとってどれほどに
有意義なことだったろう、君がほぼまるで開花すらせず、
一跳〔〕びに、
季のおとずれとともに、その意固地な果実の中に、誰に讃えられるでもなく、
君の純なる秘密を詰めこむことが。噴水の管のように、
君のねじ曲がった枝は、樹液を上に、そして下にと逆流させ、
5
ほとんどまどろみながら、眠りより一躍、そのいと
甘き成就の幸せにと。
ほら!かの白鳥のうちにおわす神のように
⇒
…だが我らはここいらにくすぶりつづけている。
あゝ、我らが名声は開花をとげることにありて。それは既にあらわにされているのだけれども、
10
遅まきながら我らは究極の果実の
粋〔〕に突入す。
ごく
希〔〕なの者らにおいては、動作の昂揚があまりに強烈につのるばかり、
彼らはすでに、そばで待ち構えていて、心がいっぱいで、
火照〔〕っていて、
なだめられた夜風のごとく、開花する衝動が
彼らの口元の若々しきに、彼らの
瞼〔〕にふれるとき:
15
ともすればそれは英雄と若くして逝くことを選ばれた者のみにおいて、
花壇づくりをいとなむ死神が血脈をむしりとった者らのみにおいて、なのか。
⇒
此れなる者らは先を突き進む:みずからの笑顔を
拵えるよりもまず前に。さながらカルナックの都で浮彫りに刻まれる、
征服者の王像の前につらなる馬の列のように。
20
不思議にも、英雄とは若くして死にゆく者らに、ごく近いものだ。
《恒久性
》に英雄は魅せられない。擡頭することこそが存在なれば。
敢然と進み、その常に付きまとう危険よりもたらされた、変貌を
とげた星座へと踏みこむ―その英雄を探しあてることのできる者は少ない。
25
だが、我らを闇中へ隠す運命が、にわかにひらめいたように、
歌でもって英雄を、ざわめく世界の、嵐のさなかへ送り込む。
私には、彼のような者はほかに聞こえない。あたりに紛れた彼の
雄叫びが、流れる空気を裂いて、いちどに私の元にとどいてくる。
⇒
30
となれば、どんなにか私は自分を、こんな懐かしみから遮ってしまいたいだろう。
あゝ、もしこれが、これがまだ私が幼少のころであって、まだそれらは起きんとしていて、
そして私は将来の腕で
頬杖〔〕をつきながら怪力のサムソンのこと、また、
彼の母が始めは何事も、だがやがてしまいには
一切〔〕を耐えねばならなかったくだりを読んでいるとすれば。
35
貴方の身ごもる中で、わが母よ、そのときの坊やはすでに英雄ではなかったか?
彼の大それた選択が、すでにそのうちに始まってやしなかったか?
あなたの胎内で何千もの魂が醸され、彼たろうと欲していた。
けどごらん:彼は奪い、あるいは拒み、選び、それが成せるのだった。
そして彼が石柱をひきずりたおしたといえば、いつだったろう、それは彼が
40
体をうちやぶり、より狭きこの世界へ、選ぶのも成すのも
するがままの処へやってきたときだ。あゝ、英雄の母君たちよ、
ほとばしる激流の源泉よ!君ら渓谷よ、
心の淵の高きより、嘆き乙女らが、すでとくに身を投じ、
⇒
のちすえの男児のためだとて、人身御供となりし処よ。
45
なぜならば、英雄は愛の漂泊地をさすらい、
各々、彼のために意図された鼓動が、ひとつひとつ彼を押し上げ、
すでに振り返ったとき、彼は笑顔の列の最後に立つ、もう一人が。
矢印で進む ⇒
ドゥイノ城哀歌 その7
求愛などもうやめ、求愛ならずとも、此なたより沸き起こる声をもて
君の叫びの
理由〔〕とせよ。たとえ君の叫びのその純真たること
鳥のごとくなれども。盛りあがる季節に高々と揚げられるうちに
難多し禽獣ということも忘れかけ、爽快で優しき空に、春が
弾ませてくれる単なるひとつの心になりきった、そんな鳥のように、
5
君はいまだ会ったことさえない、けど、何も言わずともそのうちに
きっと君を意識しだすにちがいない、そんな
女〔〕を求めたがっている。そして
⇒
その彼女のうちに、ゆっくりと答えが目覚め、聴くことによってぬくもりさえを得、
君の大胆となりかわった心にたいし、白熱する心たることを欲している。
10
あゝ、そして春は君の想いを汲んで―いずことて、その
告知の調べを
谺〔〕してよこさぬ処はなく。まず、あのささいな、
問うようなざわめきを、清らかな、賛同してくれる春が
つのる森閑さでもって、あたりはるか、静まりかえったようにさす。
つぎには
階段〔〕を、その一段一段が呼びかけの階段を上に、上にと、夢にうかぶ
15
将来の神殿までにと―そしてさえずりが、すなわち、みずから
⇒
ほとばしる噴水を、すでに前もって捉えて、誓いあいの遊戯と
している泉…そしてその前には、夏が…
夏のそのあらんかぎりの朝のみならず―それが午前となりかわり、
始まりとして光放つことのみならず。
20
昼間どきの日々、その花をとりまく可憐さ、そして上をみれば、
木々のまわりの、その剛、かつ毅然たることのみならず
これら解き広げられたる力の、いたり尽くせしことのみならず、
街道や、夕暮れどきの草野原のみならず。
もう近づいている眠りと暮方おそく、雷があった後の、息するからに澄みきった様子のみならず。
25
もう近づいている眠りと夕どきの予感のみならず…
⇒
むしろ、そう、夜が!いと気高き夏の夜が。
むしろ星が、この地上からの星が。
あゝ、いつの日か死に、星たちを
永久〔〕えに知り、
すべての星たちを。なぜに、彼らを忘れさることはできまいに!
30
ほら、私はかの愛する
女〔〕に呼びかけてみた。だが、彼女のみやって来たためしは
なかった…
脆〔〕くなった墓からは
少女〔〕たちがみなやって来て、
そして立ちつくす…といって、いったん呼んでしまって、いかすればその呼び声を、
それらうち一人にしぼってあてられよう?没した者らはいつどきも、地上にあることを
35
望むがゆえ。―君ら子供たちよ、かつてここらにいて一度たりとても
捉えたるものは、多くに値するなれば。
運命が、幼き頃の凝縮したもの以上であるだなどと、かりにも信じてはならない。
君は幾度かつて愛する
女〔〕を追い抜いて、息を切らせながら、
⇒
幸せな駆けっこに息はずませたろうか、何のあてもない大地めがけて。
40
此処にいるということは輝かしいことだ。娘らよ、君らとて知っているだろう、
君ら、何もせずうちに、察するところあらん都市の最もいかがわしい
街なかの、腐蝕してゆくさなか、排水溝のあらわになった処にて没せり
者たちよ。が、君らはそれぞれが一時間、いや、もしかすれば
45
一時間ぜんぶには満たない、時の目盛りでは測れない、
二刹那をへだつ分量を、存在あるうちにもたらされて
いた。すべてを。血脈が存在に満ちて膨らむように。
ただ、我々は我らを嘲笑う隣人が肯定するとも、また
羨望するともしないそれを、じつに忘れがちなものだ。それを目に見えるものとして
50
我らは
頌〔〕えたいものだ。しかしながら、もっとも目に
見〔〕うる歓びは、我らが
心のうちで造りかえて始めて
目〔〕のあたりにできるものなのだ。
それはいずこにもあらず、わが愛する人よ、世界は心のうちをよそにしていずこにもあらず。
⇒
我らが人生は、変化をとげることに費やされる。そして永久にすぼみつづけながら、
55
やがて外界は無くなってゆく。かつて受け継がれてきたはずの、その屋敷のあった処には、
架空の像がそそり立ち、
逆〔〕しまに、それでいてまぎれもなく想像しうるものの
うちに属しながら、完全なまま脳に居ついていた。
力の溜め場たる、そんなとてつもない蔵をこしらえる
《時代の精霊〔〕》。
その力は、全てからそいつが抜きとる張りつめた緊張のごとく、形なきゆえ。
60
神殿さえ、その
《時代の精霊〔〕》にはもう見覚えないものだ。これら心の
浪費を我らはなお密かに貯えこんでいる。そう、あるひとつの物がいまだ、
かつての祈りと
虔〔〕みと
跪〔〕きのための物が―そのまま、
すでに見えざる世界にてかつてどおり持ちこたえている。
多くの者は、それが見えなくなっているばかりか、それを心のうちにて、
65
支柱や石像とともに、更に偉大に造りかえることの利をとり逃している。
⇒
地球がゆっくりとその自転をくりかえす度に、そんな彼ら勘当されし者がいて、
先にあったものも、後からくるものも、いずれも彼らのものではないのだった。
なぜに、最も身近なものさえが、人類には遠かりきゆえ。我らは
70
そのことに惑わされてはならない、憶えある面影をしまいつづけようとする
力を新たにせねばならない。此れがかつては人類のもとに建っていた、
つまりは運命のさなか、すなわち破壊せしもののさなか、
《いずこにかわからなさ
》の中心に、あたかも存続するかのごとく、そして其れは
星たちを引き曲げ、固定されているはずの天空より自分に寄せる。天使よ、
75
なおもって君に見せてくれよう、ほら!君の見つめるなかで、
やっと救われて、ついにそれは真直ぐに建っている。
石柱、
石門〔〕、スフィンクス像、上へ上へとめざす
灰色の、崩壊する町の、あるいは異郷にある大聖堂。
80
それは奇跡ではなかったか?あゝ、目を見はれよ、天使よ。なぜならそれは我らならば。
⇒
そなた偉大なる御方、
宣〔〕いたもう、我らの成しとげし事を。我が息は
此なる讃美をやりぬくほどに、長続きしやしない。しからば
我らはこれら空間を無駄にはしなかった、恵みあるこれら
我らの空間を(それは何と恐ろしく巨大なのだろう、なにしろ
85
何千年間もの我らの感情にも、満ち溢れることすらないならば)。
だが、かの塔は、それは偉大なるものだった。そうだろう?あゝ、天使よ、そうではなかったろうか?
―君をさしおいてなお、偉大ではなかったろうか?シャルトル聖堂も偉大なれば―
そして音楽は、そのなお上空に達し、我らの向こうはてに
翔〔〕けていった。
⇒
だが、ひとりの恋いこがれる女―独り、夜通し窓辺にいる女…
90
せめて彼女なら君の膝元に及ばんものか?
信ずるなかれ、これが求愛であるなどと。
天使よ、もし求愛したとても、君は来るまいに。私の
呼びかけはいつも、逃げ口上だらけゆえ。あれほど強力な
流れに逆らっては、
跨〔〕いでゆくこともままならぬだろうに。まるで
95
差し伸べられた手のようなのが私の呼びかけだ。そしてその、掴もうとすがる、
上むいた、開かれたままの手のひらが君の目前にじっとして、
開かれたままに、庇護のために、忠告のために、
君、捉えざる者よ、大きく開いたままに。
矢印で進む ⇒
ドゥイノ城哀歌 その8
その眼いっぱいに、生き物たちは、
開〔〕けた
《大地
》を
見やる。それなのに我らばかりが、眼も
逆向いていて、生き物らを取囲むかのようで、
恣〔〕な行動の自由をむしろせばめている。
外〔〕には何があるのか、それを我らはただ獣たちの
5
顔のみから知る。なぜなら我らは、幼き子供たちでさえをむりやり
振り向かせ、
《形象〔〕》のみばかりを見ることを強いて、
《大地
》が、獣たちの顔にあんなに深く刻まれているのに、
それを見えなくさせている。死のごときから自由の身、
⇒
そのことは我らのみが知る、だが自由の身にある獣たちは、
10
身の破滅を後ろにしていて、かつ、
その前には神が。そして、進めばそれは
永遠に向かって進み、たとえば泉の流るるように。
我らは決して、たった一日たりとても、
花々がとめどなく咲きほこる、純粋たる空間を
15
もたらされることがない。ここは、永遠にやはり
《世界
》であって、
決して
《否〔〕を欠く
不在〔〕の処
》とはなりえない:それすなわち
純粋たる、見守られもせぬ空気、すなわち我らが息し、
ことごとく知り、そして欲しがるなどしないもの。まるで子供が
静けさに自分を見失い、肩をゆすって我にかえさせなければならない
20
ように。あるいは誰かが死んで、それとなるか。
⇒
死に近寄ればもう、死は目に入らなくなり、
前途を見つめることとなり、ともすれば大いなる獣の眼でもってそれをするかもしれない。
かれら恋人たちは、おたがいが相手の見る邪魔をもし、しなくなるとすれば、とたん、
死のごく間近にいたのだったことに、驚愕するはずだ…
25
なにか不慮のあやまちかのように、それぞれ相手の背後に
死が開けんとしていたりする…だが、いずれも相手を
通り越せることはなく、やはり
《世界
》が。
常に
《創造物
》のほうばかりを向く我らには、
自由なものたちの、ほんの
映像〔〕しか見えない、しかも
30
それが我らに翳りさえ与えられて。でなければ獣が、のみならずしかも
唖でさえある獣たちが、目線を上げ、我らをつくづくと眺める光景か。
それが運命というものだ:向かい合うこと、
しかもそればかりをする、しかも常に向かい合っているということ。
35
もし、我らと
類〔〕おなじくした、この意識を、
別方向よりやってくる、かの心確かなる動物がもし、
⇒
持てたなら―その歩んでいったあとに我らは
ひきずられてゆくだろう。だが、そいつの存在は
彼にとって無限なもので、未だ把握しえぬもので、しかも
40
おのが立場をちらとも
掠〔〕め見ていなく、その外方を見る目のように純粋なのだ。
そして我らが未来を眺めるところに、それは全てを見、
全てに自分を見いだし、永久にいたるまで癒されたのを見とどける。
けどそれでいて、かの生温かい、警戒ぶかい動物の中にこそ、
45
大いなる悲哀の重みと
慈〔〕しみが。
なぜに、そいつにしろ、いつしも
《記憶
》にまとわりつかれているがゆえ、
すなわち、我々をしばし圧倒させるもの、―すなわち
いま我らが求めているものがあたかも、かつては
より近く、まこと
真〔〕らしく、その絆もとりとめなく優しかったかのような、
50
そんな記憶。ここではすべてが隔たり、
そこではすべてが吐息。最初の
故郷〔〕につづく
第二のそれは、寄り合わせみたいなもので、すきま風吹くようだ。
あゝ、めでたきは産みおとされるべき胎内に
永遠に留まる、小さき生き物なるかな。
55 ⇒
あゝ、歓びは、いまだそのうちにて飛びはねる羽虫、
夫婦〔〕とむすばれる日もなお。なぜに、母胎こそがすべてなれば。
それに見よ、すでに創始のはじめから、両方いずれともを
知りうる
鳥人〔〕の、半端ばかり確たる
様〔〕を。
まるで
エトルリア人†8の魂が、
60
その安眠の図の描かれる
棺蓋〔〕に封ぜられた
空間で、
屍体〔〕のうちより舞い昇るようなのを。
それにしても、母胎より生まれいづる者らは、いざ飛ぶときに
なると、なぜこうも動転したりするのだろう?まるでみずからを
恐れるように、たどたどしく空をよぎり、
杯〔〕にひび割れが走るように、
65
たとえば
蝙蝠〔〕のえがく軌道が、
⇒
磁器でこしらえられた夜を貫くように。
そして我ら、傍観者、いつ変わることなく、あらんかしこにて、
すべてに目を向けて、けっしてそらさず。
70
我らはすべてに充てる。我らはそれを整える。それは壊れる。
それをまた整えることで我らもまた壊れてゆくのだ。
いったい誰なのか、我らをここまで捩じまげたのは?―我らが
何をせど、それが立ち去りゆくもののような素振りなしには、
75
為しえなくしたのは?たとえば、故郷の谷をすべて
見下ろせる最後の丘で、見おさめに
振り返り、立ち止まり、名残を惜しむように―
我らもまた、そうして生きながらえつつ、常に別れを惜しんでいる。
矢印で進む ⇒
ドゥイノ城哀歌 その9
何故に、もしこの存在の
道程〔〕を、
月桂樹〔〕となってやりすごすことができるなら。ほかのどの
緑よりもぬきんでてなおほの暗く、かれしも細やかな縮れを
葉のふちに有す、(そしてそれが微風の笑むような)、そんなものであれるなら―それならば
何故に、我々人間は、わざわざ運命を忌み嫌い、しかせども
5
運命を求めたりする?…
否や。それは
《幸福
》などという、
《機早まった先儲け
》を、
まぢかに失われつつあるものから奪おうとする為ではなかろう。
あるいは興味にそそのかされたから、それとも心のままを実行したいから、でもないだろう。
それくらいならば、
月桂樹〔〕にだってあるはずだ…
10
むしろそれは、
《ここに現存する
》ということが大そうなことと、察っするところ
⇒
《此処にあるすべて
》、はかないものらが我らを必要としていて、我らと
不思議に関っていそうだからではあるまいか。我ら最もはかなきやから。
一度〔〕、
いずれの者もわずか一度。それっきり、いちど限り。そして
15
我らにしても、やはり一度。決してふたたびと無く。けどこの
一度が、たった一度だとはいえども、それが
地上にいたということは、どうやらぬぐい去ることのできぬことらしかるようだ。
だからこそ我らは己が身を強いて、それを実現するを望み、
このとおりただの手のひらのなかに、
抱〔〕くのを欲す、
20 ⇒
この溢るる視界に、物言わぬ心に、
ねがわくば、それと成就せんことを。これを誰に譲るなどするものか?むしろ
独り占めするまでだ、これらみな永遠に…あゝ、なれど向こうの世界まで、なにか
持ってゆけるとしたら、はたして何だろう?此処にいてやっとのことで
学びえた、もの観る
能力〔〕もだめ、此処で起こった何もかもがだめで、何もないものか?
25
だとすれば、苦しみか?とすれば、すべてをさしおいて、存在の重み、そして
愛の長いあいだの遍歴―いずれにせよ
言いつくしがたきもの。だが後となり、
星くずの下にあらば何とする?それら、言うまでもなきことではあるまいか?
旅人が、山腹より
谿谷〔〕のここまで持ってきたそれは、けっして
30
一握りの土くれごとき、かの言いがたきものではなく、
すでにわがものとした純粋なる言葉、黄色や青の
りんどうの花、我らがここにいるのはもしかして、ただ、こう述べるためなのか―家、
橋、井戸、門、
水瓶〔〕、果樹、窓―
⇒
かりにゆずっても石柱、塔…くらい。けどしかし、それらを述べたてるということは、わかってほしい、
35
あゝ、それらを当の物らじたい、心底、自覚したなどとうていありえないほどに
述べたてるということは。あれももしかすると密かなる謀りごとではあるまいか。
黙秘の地球のなすすべ―すなわち恋人たちをそそのかし、
その感情のうちにすべてが歓びのごとくなりかわるのは、
敷居。それは二人の
40
愛し合う者にとってなんなのか、自分らのものとなった古くからの敷居を
少しずつ磨り減らすことは、彼らもまた、かつての数多くの者らにならい、
そして将来の者らに先んじて…軽やかに。
此処にこそ
《言いうるもののため
》の
時刻〔〕が、ここにその
故郷〔〕が。
45
唱えよ、そして告白せよ。かつてなかったほどに。
我らが生身で体験しうる物は、いずこかへこぼれ落ちてゆく、そして
何がそれにとってかわるかといえば、それは象徴すらを欠く行動。
その内部での営みが成長し、自らを制限する。
いともたやすく亀裂する外殻の、表面化での行動。
50 ⇒
鎚〔〕と鎚とのあいだで我らが心は永らえ
つづけている、あたかも歯と歯のすきまの
舌根〔〕であるかのように、それにもかかわらず、
常に讃えつづけていられるように。
55
天使にはこの世界を讃えて見せよ、言いえぬ事をではなしに。天使の前で
君が勝ち誇ろうとするなど、いかに素晴らしく見せてみたとて君ごときの感情では不可能だ。宇宙にて
天使こそ、より敏感にもの感ず―に対し君はまだ素人だ、だから示すなら
ありのままに、代々、形づくられてゆくそれ、
我らが目や掌の近くに
《我らのもの
》として生きるそれを示せ。
60
物らのことも伝えるのだ。天使は、さらに驚き、立ちつくすはずだろう;
君がローマの縄結いやナイル河の陶芸師のそばでそうしたように。
見せてやりたまえ、
《物
》にだって歓ぶことができるのを、いかにあどけなく我らのものとなれるかを。
⇒
たたとえ悲しみにくれる苦悩さえ、まっとうに
形象〔〕を定め、
《物
》として役立って、あるいは物として死んでゆくのを―そして、向こうはてにと、
65
ヴァイオリンが、喜んで逃れてゆく。そしてこれら、いずこかに去りながらにして生きる
《物
》らは、
君が誉めてやっているのだとわかってくれている。
《物
》らとてはかなきものなれば、
我ら、はかなきこのうえないやからに救いを請うている。
願わくば、この見えざる我らが心のうちにて、ことごとく生まれ変わらせてくれんことを。
何と、―あゝ、永久に―我らのうちなどと!畢竟、我らが何人たれど。
70
地球よ、これこそお前ののぞんだことではなかったか?見えずして
我らより発生することが。お前の夢ではなかったか、
いつの日か、かくれ見えなくなることが?地球が!それが見えなくなる!
それがもし生まれ変わりでないとするならば、お前のせきたてる委ねごとはいったい何なのか。
75 ⇒
地球よ、
愛〔〕しお前、私はそれをするとしよう。あゝ、信じてくれていい、すでに
お前の春の季節を必要としなくとも、私はもうお前に屈している。
―たったひとつのものさえあれば、それでもう私の血は危険すぎるくらいだ。
名目の無くとも、わたしはこれよりいざ、お前の
従僕〔〕となると決心した。
いつだってお前は正しかったし、おまえの神聖なる
詔〔〕は、
80
親愛なる死であればこそ。
見たまえ。私は生きている。何を糧ととしてか?幼き頃にしろ、未来にしろ、
いずれも希薄になってゆく…有り余る存在が
我が心にぞ湧く。
85
矢印で進む ⇒
ドゥイノ城哀歌 その10
いつかある日、この
酷〔〕ききわまる
覚醒〔〕からの
退路〔〕に
発〔〕つこともしかなわば、
歓びと讃えとを、賛同する天使らにむけて、謳うことのあれ。
心のうちではっきりと弾かれたはずの
楽槌〔〕が、
弛〔〕んだ、たどたどしげな、あるいはいまにも千切れてしまいそうな
絃〔〕に当るなどする
ことのなかれ。この、わが流れあふるる顔をもってすば、我こそはまさしく
5
照りかがやけ。わが取るにたらないむせび泣きも華やげ。
あゝ、君ら夜たちも、そうすればいかにも愛しきとなれるのだろうに。
嘆きどおしの夜たちよ、私はもっともっと跪くことを―そう、
⇒
癒すことのかなわぬ君ら姉妹を迎え入れること、君らの解きほぐれた
髪に、もっと気ままにわが身を委ねることをしなかった。我ら悲嘆の浪費家どもは。
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我らは夜のその先をかいま見るように、せつないいとまにも終わりがないものか、
などと。だが、じっさいそれらは
我らが越冬の葉、我らが暗き
常盤木〔〕、
秘められた一年の一季節―しかも、季節のみならず、
それはところ
所処〔〕、部落、ねぐら、
住処〔〕、
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確かに。あゝ、何とも妙なものなのか。苦悩の都の街なかは?
⇒
そこには、
《超響
》がもたらす偽りの静寂―のなかから
強烈なそれ―空虚の鋳型からできた鋳物のごとし、
怒号するく
《金メッキの騒動
》、炸裂する記念碑。
あゝ、かのごとく天使は、あとかたも残さずして踏み荒らす、かの、
《慰めを
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もちよるための市
》を、そして、その
辺〔〕に教会をすえた、既成のまま
贖われたそれ。清潔で、戸締まりされていて、残念そうで、日曜日の郵便局のような。
外にはそれでも村祭りの市のはずれが、かならずどこかにさざめきが―
《自由
》のブランコ乗り場!
《熱狂
》の高飛込みや曲芸師!
象徴的なる、
《派手な賭運
》の射撃台、そこでは、
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名手が命中させる標的が、ブリキの音をたてて
わなないている。喝采から運の向くほうへ、男はよろめきつつ、なぜに
屋台では興味をそそられた客らを誘わんと、打楽器を鳴らし、
⇒
声をはりあげているがゆえ。が、大人たちのためには、
とっておきの見世物が。ごらんあれ、金銭が殖えゆくありさまを、生理学的なる、
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たんなる戯れのみでなく。金銭にそなわる生殖器、
すべて、ぜんぶ、その行為そのもの―何かを諭し、
豊穣なるものとなす…
…あゝ、でもすぐ
外〔〕にでれば、
《不死
》のポスターの貼りまくられた
宣伝板〔〕の裏にゆけば、
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苦いビールも、それを飲む者にとってほの甘く感じられるようだ、
ただしその間、つねに新鮮な
《気を紛らせてくれるなにか
》を噛みしめていさえすれば。
いずれにしろ、宣伝板のむこう、そのすぐ裏にいけば、すべては真実なのだ。
そこでは子供らが遊び、隅っこの、芝生の禿たところで真剣そうに
⇒
男女が抱き合い、犬たちが自然に応えている。
40
そのむこうでは若者が誘われている。それはあるいは若き
哀愁に惹かれるのだろうか…野原へと彼女についてゆく。彼女が言う。
まだ遠くなのだと。あのもっと向こうに住んでいるのだと…
どこかい?と、そして若者は追いしたがってゆく、
45
彼女の仕草に心揺り動かされて、その肩、そのうなじ、―もしや高貴な家の出ではあるまいか?
けど、若者は去っていってしまう。戻りつ、いったん振り返り、あたりを見回し、
手を振って見せる…だがそれが何になろう?彼女はしょせんたかが哀愁なれば。
ゆいいつ、幼くして死せり者のみ、かれら時忘れられた平穏の境地に
50
入り
初〔〕めたころのままの、乳離れされたころのままの者たちのみが、
いとおしげに哀愁を追う。哀愁は、娘たちを
⇒
待って迎えて、親しくなってゆく。自分が
着〔〕けているものなどを、優しく
見せてやっている。―
《苦しみ
》の真珠の首飾り、
《辛抱
》の
薄絹のヴェール。―若者とは一緒に歩いても、何も言わずに。
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だがあちらでは、一族が住んでいる谷間では、年経た哀愁のひとりが、
問いかけた若者に応じてくれる―我らはかつて、その彼女のいわく、
かつて偉大なる一族だった、我ら哀愁どもは。先祖の父たちは
むこうの山々で鉱山をいとなんでいて、ときおり人の世に、
磨きあげられた
《原始のころの苦しみ
》が見つかったり、
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あるいはそれが昔の火山の溶岩のかたまりと化した
《憤〔〕り
》だったりするが、
それらは皆、あそこから出土したものなのだ。我らだって裕福だったころもあった。―
そして軽やかにして彼女は若者を
《哀愁
》の大地へと導き、
⇒
聖跡のなごりたる石柱や、かつて
《哀愁
》の君子たちが
慧〔〕く国をおさめたころの要害のあった跡を
65
見せてくれる。高木の
《涙の樹々
》を見せ、
咲きほこる
《悲哀の野原
》を、
(
生命〔〕ある者らには、やわらかい若葉としてしか知られていないそれを)見せ;
そして
《弔い
》の動物の群れが草を食らっているのを―そしてときおり
何かに驚いた鳥と、獣たちの視野をよぎるようにして、
70
一羽、孤独の鳥の啼く声が、描かれた景色となって、たなびいてゆく―
夕どきになると、彼女は若者を哀愁の一族の長老たちの
永眠〔〕る
墓へと連れてゆく。巫女たちや予言者たちの…
⇒
けど夜になれば、二人は歩くのもゆっくりで、もうじき
月としてまい昇るそれは、すべてを見守ってくれている
75
石棺。その兄弟、ナイル川のほとりの
気高きスフィンクス―秘められた密室の
顔容〔〕。
そして二人は、冠を戴いた首に感嘆する、永遠に、
穏やかに、人間の面差しを
80
星たちの規模で貼りつけたそれを。
それを捉えることを、彼の目はできない、まだ死んだばかりで、
眩暈〔〕がするままで。だが彼女の視線は、
ファラオの二重冠〔〕†9の
縁〔〕から 、
85
一羽の
梟〔〕を驚かす。そして鳥は、
掠めるように、ゆっくりと撫でるように頬を、
⇒
その、
熟〔〕れんばかりの丸みを、しかも
幽かに新たなる死者の聴覚を
なぞる、その開いた本のむかいあったページのような
90
処へ、かの、(説明しがたき)輪郭を。
そしてより高くには、星たちが。新たなる星、悲嘆の国の星、
徐々に哀愁は、それらを名付けていく:「ほらあそこ、
見てごらん、
《騎士
》の星、
《杖
》の星、そしてあそこの込み入った星座は
《果実の花輪
》というのだよ。そして、さらにもっと、極にむかっていけば
95
《揺りかご
》、
《道路
》、
《 燃える本
》、
《人形
》、
《窓
》。
だが南の空には、神聖なる手で掬われたように、
はっきりと、まばゆく光りかがやく
《M
》の字が―
それは母たちを意味するのだよ。
100
けど、死者は行きつづけねばならない、そして年経た
⇒
哀愁は、谷間のほとりへいざ、
歓びの泉に、
月明かりの揺らめくところに。
恭々〔〕しく
それをも彼女は名づけてみせる、いわく:『人の世界において、
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これこそは船を浮かべた川なり、』と。
かれらは山のふもとで立ちつくす。
そこで若者を腕のなかに抱きながら、哀愁はさめざめと泣いている。
110
一人ぽっちにされ、若者は
《原初の苦しみ
》の山頂を登る。
そして、その足音は一度とて、この音もさせぬ破滅に響くことなかれ、と。
しかし、もしかれらが何らかの象徴を我らがうちに目覚めさせたなら、かれら
⇒
いつまでも命尽きたままでいる者らがそれをしたなら、ほうら、かれらは丸裸の
榛実〔〕の木に、
綿毛がしだれさがっているのを指さしてみせるだろう。あるいは、
115
それは初春の黒土に降る雨を示しているのかもしれない。
そしてはじめて我ら、みるみる募りつつある幸せを思う者らは、
何か幸運のしるしたる物が
降〔〕ってくるたびに
我らをあわよくば当惑させるともしかねないその感情を、
120
感じとることができるのだった。
註:
†1 ガスパラ・スタンパ。十六世紀、ミラノの貴婦人。愛し、棄てられ、信仰、詩、他の愛人などによりみずからを慰めた。[
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†2 ベニス(ヴェネチア)に所在する教会。[back]
†3 リノス。ギリシア神話で、ヘラクレスの怒りをかい、竪琴で撲殺されたという音楽の師。あるいは、春の体現化したものともされる。[
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†4 トビアス。聖書の
旧約外典〔〕「トビト書」にあらわされる、
流謫〔〕のユダヤ人。老いて
盲〔〕いた父トビトとともに流刑の地ニネヴァ(アッシリア国の首都)にいたが、その父により隣国メディアに使いにだされる。
そしてメディアの首都エクバターナには、七人の夫をつぎつぎ悪魔アシュモデウスにより命うばわれた、遠戚のサラという娘がいた。これをたすけるため、
大天使ラファエルはみずからをアザリエルと称して、トビアスと旅をともにする。大天使から「魚から臓物をぬく」という知恵を授かったトビアスは、悪魔
の凶手をみごとしりぞけ、サラと結婚する、というあらまし。[
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†5 古代ギリシアのアッティカの浮彫墓標。(アッティカは、都市アテナが在する、ギリシア東南に突出した半島地方)。[
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†6茶褐色い眸。ここの表現は「マルテの手記」の和訳(大山定一訳?)からそのまま引くことにした。[back]
†7 アウグストU世(強公)1670~1733。ポーランド王(また、フリードリッヒ・アウグストスT世としてザクセン選挙侯)。マイセン窯(ドレスデン・チャイナ)の擁立、そのほか東洋磁器のコレクションで名高いツヴィンガー・ギャラリーの創立で知られる。白鑞〔〕(ピューター)の置物もその収集品のひとつだろう。[back]
†8 エトルスクともいう。ローマ帝国以前の、イタリアの先住民。[back]
†9 プシェント。上エジプトの白冠と下エジプトの紅冠をくみあわせた古代エジプトの国王〔〕のかぶりもの。
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