じゃがたらお春の背景 --------------------------- (出典:吉村昭著「ふぉん・しいほるとの娘(上)p.131-」) 最初の混血児の受難のともいうべきものは、百九十年前の寛永十三年(一六三六)五月十九日付けで発せられた幕府の通達によってひき起こされた。 幕府は、キリスト教をひろめることにつよめていたポルトガル人、イスパニヤ人の国外退去を命じる施策の一環として、堀田加賀守、松平伊豆守、酒井讃岐守、土井大炊頭の連名で、長崎奉行に下知状を発した。その中に、 一、南蛮人(ポルトガル人、イスパイニヤ人)ノ子孫ハ、日本人ニ残シ置カザル様堅ク申付ケル 事、モシ違背シテ残シ置クアレバ、死罪。親族ノ者モ処罰ス。 一、長崎ニイル南蛮人ノ子供、又ハコレラノ子供ヲ養子ニシテイル者ハ、父母等一人残ラズ死罪 ニ価スルガ、一命ヲ救ケ、南蛮人ノイル地ニ赴クコトヲ許ス。但シ、日本ニ帰ッテキタリ文通 シタリスル者ハ死罪トシ、ソノ罪ハ親族ニモ及ブ。 といった内容の条項がふくまれていた。 この下知状によって、ポルトガル人の血をひく混血児とその母ら二百八十七人の国外追放が決定した。 同年七月八日、ポルトガル船四隻が長崎に入港し、八月十三日に追放者をのせてマカオに去った。これらの者の中には、混血児以外に、日本人の妻になったポルトガル婦人、混血児の母である日本女性、混血児を養子とした日本人夫婦、ポルトガル人の妾であった日本女性などがまじっていた。 そのため、家族の中で父、母、兄弟、姉妹のいずれかが永久追放をうける悲劇が起り、互いに悲しみ嘆きあう声が海岸にみちた。やがて、かれらは警護の者に追い立てられて船に乗せられていったが、かれらの泣声は船が港から出て行くまできこえていた。 その後、島原の乱があって、幕府は一層異国人に対する警戒を強め、ポルトガル船の来航を禁じた。さらに貿易を許していたオランダ人に対する圧力も強化し、寛永十六年(一六三九)ニ月二十一日に、阿部対馬守、阿部豊後守、松平伊豆守の名で長崎奉行に対しオランダ人等と日本人との間に生れた混血児等に対する追放令が通達された。それには、 おらんた人 二 日本 一 子を持候儀、可 ニ 停止 一。此跡持候子ハ、其父もつけ、母共に異国 へ可 レ 遣事 という一条があった。つまり、オランダ人は日本で混血児をもつ事を禁じ、今後混血児をもつような事があった場合には、父であるオランダ人につけて、母である日本女性とともに海外へ追放するというのである。 混血児は、それまでにもしばしばジャカルタに追放されていたが、この訓令によって、その年の九月にはオランダ、イギリス系の混血児とその母親などがバタビヤに放逐された。 その中には、お春という十五歳の混血児もまじっていた。お春の父はイギリス人とされていたが実際はイタリヤ人で、三十七歳の母、十九歳の姉である混血児まんとともに追放になった。お春は、母、姉と嘆き悲しみながら長崎からバタビヤに移住させられたが、二十二歳の折に平戸生れの紅毛人シンモンスと結婚し、子にも恵まれた。彼女は美しい女で頭もよく、習字、読書も心得ていて、異郷で生きる淋しさと望郷の思いを字に託して、故郷の縁者、知人に手紙を送った。 それは、じゃがたら文といわれたもので、「日本こひしや、ゆかしやなつかしや、見たや〜」 「むねせまり、くるしきまま書とめまゐらせ候」「あまり日本のこひしくてやるかたなき折ふしは、あたりの海原をなかみ候より外は御さなく候」「ただ一たび仏の御あはれみにて、日本へ帰申べしとこそ思ひまゐらせ候。たとへ三日をすぐし侍らで、きえ果てまゐらせ候共いささか、くるしからず候」などと、切々とした思いがつづられ、人々の涙をさそった。 その後、混血児の追放は絶え、遊女がオランダ人の子を産むことも、奉行所の定めた正規の手続きをふめば少しも非難すべきことでなく、一般人として扱う旨の訓令があった。これによって、遊女が混血児を産むことも多くなったが、果たして混血児が社会の中でどのように生きてゆけるかという不安は依然として残されていた。